「報道」と「言論」の分立


最近自分がわめいていることの繰り返しにはなるのですが、やっぱり、「報道」と「言論」は分立していなければならない、と思ったわけであります。


「報道」も、報ずる事象の取捨選択が発生している時点で、中立たりえるわけは無いのですが、
「報道」を志す人間は、そこに「言論」を入り込ませないような徹底した自己反省が必要だと思うわけです。


そして、リテラシーを持った人間が「報道」を分析、検討した上で、多種多様な「言論」を展開するべきなのでは、と。


幸い、現代社会は、インターネットと言う技術によって、多種多様な「言論」を展開する「場」を手に入れた。


ならば、既存の大手メディアには「言論」の場から退場していただき、数多の「市民」に「言論」をゆだねるべきなのでは? と思う次第であります。



今回の件で言えば、
「一部から『庶民感覚からかけ離れているのでは?』との声がありますが?」
という時の「一部」って言うのは、即ち「煽動家」に他ならないわけです。


煽動家って言うのは、即ち、「情」で物事を判断する大衆におもねったメディアと、それを利用して政権奪取をもくろむ民主党のことなのであります。