迎合政治がこの国を滅ぼす

国のメンツとか、国家の信頼感みたいなものが崩壊して久しい。

自分としてみたら、これは相当ヤバい事だと思う。

それは、「法の支配」の揺らぎであり、
流行りの言葉でいえば、モラルハザードの誘発であるから。

この社会に生きる我々は、
日々、物事の「善悪」に対して、思慮を重ね続けられる程、暇ではない。

従って、日常生活において我々の行動を縛っているものは、価値観になる。

日本社会がその価値観を「法」に求めている以上、
「法」を司り、執り行う存在である国家の信頼感・孤高性と、
それを担保するための「メンツ」の軽視は、
モラル・ブレイクに直結するのだ。



このことに想いを馳せるたびに、思い起こす出来事がある。

小泉時代に政府が、ハンセン病訴訟に控訴しないことを決めちゃった件。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%89%E3%81%84%E4%BA%88%E9%98%B2%E6%B3%95%E9%81%95%E6%86%B2%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%B3%A0%E5%84%9F%E8%A8%B4%E8%A8%9F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%97%85%E5%95%8F%E9%A1%8C#.E3.83.8F.E3.83.B3.E3.82.BB.E3.83.B3.E7.97.85.E8.A3.9C.E5.84.9F.E6.B3.95.E8.A8.B4.E8.A8.9F

「メンツなんて小さいコトにこだわらず、よく決断した!」といった感じで、当時のメディアはこぞって大絶賛していたわけだが。

今、思い返せば、ニュースとして小さな出来事ではあるんだが、
この国の社会が、
「理」ではなく「情」に、「タテマエ」ではなく「ホンネ」によって、
支配されつつあることを端的に示す例にだったのではないかと。


大衆は常に「情」に、「ホンネ」に左右される。

しかし、「情」は時に、人をを衝突させるし、「ホンネ」は時に間違う。

優良な遺伝子を残すという自然界の掟に従った「情」が、
時に男を浮気に走らせる、という例が端的に示すように、
「情」や「ホンネ」が、社会を構築・維持していく上で障害になるケースも、
多々存在するわけで。


為政者の「メンツ」が果たす、社会的役割に思いを致してみても良いんではないでしょうか。


で、システム論をすると、

例えば、ハンセン病の件が、戦前の体制下での出来事であったとするならば、

<政府は、「理」を以って控訴する決意であったのだが、
 天皇陛下の温情ある「聖断」によって、政府が控訴を断念する>

というようなシナリオで事にあたれたのかもしれないと思うわけです。

「ホンネ」と「タテマエ」を、それぞれ体現する主体が存在し得るシステムだったとも
考えられるわけで。

「理詰めだけでは息苦しい」部分をケアする為の
「情を体現する主体としての君主」が存在するシステムというのもあり得るよなぁ、と
思ったわけで。