戦争責任って?

▼戦争責任

国内において、戦争責任を論じるときに、「戦争責任」とは何ぞやという話。


僕は、国内において、先の戦争の責任があるとすれば、
「戦争を起こした責任」ではなく、「戦争に負けた責任」があるのみだと思っています。


じゃぁ、負けた責任は誰にあるのか?
それに関しては、負けた原因はいくらでも挙げることが出来る。


それは、戦争に関わった、かなり多くの人間に帰することが出来ようと思います。
・勝てるはずのない戦争をせざるを得ない状況を作った人物
・状況判断を誤った作戦指揮を行った人物


また、負けたという状況下における、戦争遂行の責任者にも、責任はあるでしょう。
「責任者」なんだから。


ただし、「戦争を始めた」そのこと自体に対する責任は、存在しない。


そのことの責任を問うのであれば、
ハルノートを突きつけた人間、
「戦勝側」の戦争遂行の責任者も、その責任を問われねばならないでしょう。



今の「戦争責任」をめぐる論点は、ズレている、
というか、ものすごいまやかしの中で議論しているように思えてなりません。


A級戦犯

A級戦犯という、存在に関しても、本来の意味と違って用いられているように思えます。


A級戦犯とは、
東京裁判において、戦勝国側が「平和に対する罪」が存在すると判定した人々のことです。


つまり、A級戦犯とは、戦勝国が、
「お前が腹を切れば、他の人間の処遇については温情的に扱うよ」という、
「手打ち」の為に生み出した存在、ということです。


戦国時代、篭城戦の末の落城時に、
「城主が腹を切れば城兵の命は助ける」という、開城交渉の際に、
責任を負って腹を切ったのと同じことだと思います。


多分に、戦勝国と戦敗国が、戦争状態を終えるために行う、
儀礼的・形式上の存在に過ぎないわけです。


戦時中当時、
「戦争を指導したこと」「国政上の責任を負っていたこと」そのものに罪があり、
その罪への罰として処刑された

ということにして、手を打ったわけです。


戦時中当時、
「戦争を指導したこと」「国政上の責任を負っていたこと」そのものに罪があり、
その罪への罰として処刑された

という、フィクションを、大真面目に信じちゃっている人が多すぎです。






国際問題としての戦争責任に関しては、勝者と敗者の問題で、
そう云うことにして、手を打った、という事実がある以上、


今の国際関係・世界秩序を維持しようと思うのであれば、
そのフィクションは、そう云うことにしておかなければいけないとは思います。


今般の首相の参拝に際し、首相は、そう云うことであると、表明している以上、
ツッコミどころは特にないんじゃないかしら、と思ったり。