関係ないけど、ついでに、政教分離に関して思うところ

キリスト教(というよりは一神教)文化圏以外の地域には、政教分離という概念はしっくり来ないんじゃないのかなぁ、と思います

なぜなら、多神教の世界では、個人の価値観を縛る概念は、「論理」でしかない、と思うからです

  1. 一神教について

一神教ってば、人の作り出した「守るべき価値観」を完全無欠の「神」というフィクションに委ねてっている。
多神教というのは、基本的に「神」が「完全無欠」じゃないんですよね。ギリシャの神々がいかにも人間らしいのを見ても判るように、古事記の神々が(西洋的価値観に支配された僕から見ると、かもしれませんが)混沌としているのを見ても判るように。

※ 日本に関しては、明治維新のときに「万世一系」という一神教的な価値観を天皇制に付随させてしまっているのがヤヤコシイですよね
  無論、天皇に「完全無欠」性を付与しちゃったのは、当時の列強がキリスト教
  (キリスト教的「神」概念の産物である「王権神授説」に基づいたヨーロッパの絶対君主)をお手本にしちゃったのは言うまでもないですが

  1. 日本における政教分離

政教分離の目的って、
・政策決定に宗教界の影響を排除する
・信じる宗教による差別→迫害 → 社会秩序の不安定化の防止
だと思うんですよ。


個人的な印象としては、日本においては、政教分離は、遅くとも江戸初期には確立していた概念、
上記の目的は達成されたというような気がします


▼平安遷都は寺社勢力の伸張を抑制するために行われたのを皮切りに、中世以降は仏教(背後に公家)勢力の影響を、武家政権は完全に統制するに至った
禁中並公家諸法度・諸宗寺院法度)

▼信教の差異が社会問題化しなくなった(島原の乱でおしまい)
 ※ 島原の乱も、本質的には宗教問題じゃなくて、他の社会問題による一揆で、宗教的な問題は口実なんじゃないかと思ってますが

だからこそ、創価学会日教組公明党が怖いわけなんですが

  1. 倫理観

人の行動を規定する「価値観」(倫理観といっても良い)を規定するものは、歴史上、
「宗教(一神教)」と「法」でした

教育があまねく行き渡らない文明レベルでは、わかりやすい(「破ると天罰が下る」という論法は、ホントわかりやすい)ので、「一神教」は非常に有効なツールでした

しかし、科学の発展により、それまで「神の所業」といわれていたことの説明が出来るようになるなど、
「神」という存在がフィクションの産物であることに、
人々が気づいてしまっている現在に至ると、
指導層の理性・理論・論理によって作られた「法」でしか、社会秩序を維持するための価値観共有が出来ません

だから、その辺を握っている政府が「法」をしっかり整備しなければいかんでしょう