バカをバカにするということ

ここ最近、「バカをバカにするということ」について考えているのですよ。

「バカ」、「バカにする」という行為の定義は曖昧にさせてください。
なんとなくニュアンスは伝わるんじゃないかと思うので。



一般的には、「バカであっても人なのであるからして、バカにしてはいけません」というのが正解。

でも、そんな一般常識的なモラルに乗っかるならば、そんなことをそもそも考えないわけで。



そんなこんなで、バカをバカにすることに意味はあるのか、という点を考えてみます。



意味がありそうなケースその1 :
 「バカにその愚かしさを指摘し、気づかせることは可能か」という命題に対するイチ方法論として。

バカにその愚かしさに気づかせるに当たって、「諭す」が有効なのだろうか。
「諭す」という行為の有効性については、特定の条件下においてのみ有効、と認められるのが、理性的な考え方なのではないかと思う。すなわち、愚者が賢者に相応の敬意を抱いており、賢者に愚者を導く動機がある場合である。前者に欠ける場合は「だまれ先公」であり「うっせえババア」である。後者に欠ける場合は、そもそも「諭す」という行為が成立しない。しかし、愚者の賢者に対する相応の敬意が、賢者の動機を誘発することはありうる。と、考えると、愚者の賢者に対する敬意は、「諭し」の必要条件であると言えよう。

この場合のバカは、独善性から(程度の差に濃淡はあれど)自由であるがゆえに、バカであるという状態から離脱するポテンシャルを充分に持っている。すなわち、仮性バカである。


では、真性バカを相手にする場合はどうなるのだろうか。賢者に愚かしさへの気づきを与える動機がある場合、どういう方法があるだろうか。
その方法として、ひとつの選択肢が「バカにする」という行為なのではないだろうか。バカに屈辱感を与え、その屈辱を晴らすための行為として、「自発的な」愚かさへの気付きを誘導するという戦略である。

しかし、これには非常に高等なテクニックを要するであろう。バカにバカであるがゆえの屈辱感を与えるためには「論破」する必要があるが、生半可な論破では、バカはそもそも論破されても論破されていることに気付かないのだ。並大抵の論破力では、バカにその悪意は伝わっても、その論旨が理解されない。
つまり、バカにも理解できるレベルまで掘り下げた、高度な論破力が求められる。これはひとつの先鋭化した技術なのではないだろうか。並の「非バカ」では、ここまで到達することは難しい。バカの独善性や、議論の前提となる知識レベルがどの程度であるかに充分に配慮しなければならないからだ。


つまり、バカにその愚かさを気づかせるための「バカにする」という行為は、バカにする側に相応の論破力・論破性を求めるのである。それはすなわち、バカにでも理解できる理論の構築に他ならない。かつ、その論旨は、バカが主戦場とする分野の上に立たねばならないのだ。当然これはバカにする側に相応の労力を強いる。そしてこの労力は、徒労感という代償しか伴わない。なぜならば、自明であると思える部分にすら、論理を張り巡らせねばならないのだから。
通常の場合、「誰かこのバカを黙らせてくれ……」という状況が発生しても、そこまでの労力を費やさねば効果を発揮しないバカにする(=論破する)行為に打って出ようとは、誰も思わない。自らの思考リソースを大量に消費して得られる戦果が、「バカを黙らせる」に過ぎない。割に合わなさ過ぎる。
これを一言で言い表した古の賢人の言葉がある。すなわち、「煽りはスルーせよ」と。結果として、バカが黙るまで無視を決め込むことが一番効率的であると、経験的に導き出された対処法なのだろう。





それでは、バカをバカにするとロクでもないことしか起きないのだろうか。


意味がありそうなケースその2 :
 「バカをバカにすることそのものをエンターテイメントとして楽しむ」

これは、ある種の知的快楽を刺激するひとつのコンテンツなのではないかと思っている。


古くは

http://totutohoku.b23.coreserver.jp/totutohoku/index.php?%A1%CA%B5%C4%CF%C0%B5%AD%CF%BF%A3%B6%A1%CB


最近だと
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/01/post-e5e2.html
この辺に端を発する一連のやり取り。


とつげき東北氏が言及しておられる、

知的な者が愚かな者を「啓蒙する」のではなくて、単純に笑いの対象としてもてあそぶ一連の議論は、方向性としてはバカだが、知的に行えばエンターテイメントとして成立するのだ。
実際、それを楽しむ読者層というものが存在するのだし、これまで一般的にはなかったエンターテイメントなのだ。

これがきりkやまもと氏により一般化されようとしている瞬間を目の当たりにしている思いがするのである。





バカがバカを擁護

http://megalodon.jp/2013-0126-2143-21/blog.esuteru.com/archives/6887686.html

(解説)
ツイッターであろうが少なくとも「論戦」的なものを仕掛けた以上、知性や論理構築力の優劣は、善悪という基準からは離れ、弱いことが庇護の対象ではなくなっているというとことに認識が及んでいない例。


論戦を仕掛けておいて論破されるということを恥と思えるかどうか、という話なのかもしれない。









現状のところ、「バカをバカにすること」に意味があるとすれば、以上の可能性をしか想定することができない。
できない程度に私もバカなのだろうと思うが、しかし、少なくとも仮性のバカではありたいと思う。そしてその資格はあるのではないかと思っている。上記二氏に対して少なからず敬意を抱いているという点において。







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