新年の辞

メディア嫌い日記をぽつぽつ書いてきましたが、命の価値周りの話も取り混ぜつつって感じで、
今年も誰も見ていないところでお話させてもらおうかと思います。

一つよろしくお願いいたします。





さてさて新年早々重たい話をば。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89

ハマノパレード事件でございます。


レース中かどうかにかかわらず、故障した競走馬の取り扱いというのはむつかしいですね。
この事件の論点としてはふたつあるような気がします


・屠殺のため、「苦しんでいる時間を長引かせた」こと
・競走馬の肉を食用に供すること


食用に供される前提での屠殺において、その死は我々にとって意味のある死です。
なので、苦しまないよう、一思いに、っていうのは頷ける論点です


では、苦しまないよう一思いに安楽死させるのであれば、
競走馬の肉を食用に供していいものかどうか?


これはこれで難しい話で、上記事件を問題にした人たちは、
この2点目をこそ問題にしたかったんじゃないかと思えるわけです。


屠殺するために苦しませることになるから、食用に供するのは辞めよう、じゃなくて、
競走馬を食べるなんてカワイソウだから食べるのを辞めよう、なんじゃないかと。


死んだ後のことを考えるならば、火葬されるよりも、馬肉にして食べたほうが、
意味があるんじゃないかと思えるわけです。
食べた人間の血となり、肉となるわけですから。


脳死した人の臓器を移植に使うっていうのと、基本的には同じ考え方なんじゃないでしょうか
(馬肉の場合は、代替物が数限りなく存在するので、必然性という意味では皆無といっていいでしょうけど)。


個人的には、競走馬と知っていながらその肉を食べるのには抵抗がありますが、
コレもまた偽善であって、
他人に同じ感覚の共有を求めるべき事柄ではないかな、と思ったりします。




今、世間を若干賑わせているオーストラリアのクジラ問題ですが、
アレは、偽善の強要なんじゃないかな、と思います。

感情レベルの問題を、「生態系の維持」とかそういう詭弁で枠組みをつくった
国際捕鯨委員会(?)こそ諸悪の根源だと思いますよ。

脱退すりゃいいのに。